生きる権利、死ぬ権利

今日はコメント欄でいただいた質問にお答えします。
『人生の終わりを自分で決める権利』、『介護されない権利』についての、私の考えです。

まず自殺は論外でしょう。
命は与えられた以上、まっとうしなければなりません。
『人をあやめてはいけない』という考えには、自分が殺されないための契約という側面がありますが、根っこは『失われてしまえば取り返しがつかない』という部分にあると思われます。
ならば自分の命でも自分の好きにはできません。他人の命と同様に尊重しなければいけない。
人間が命という無形のものを大切であると認識する生き物である以上、『生きる権利』があるというよりは、『生きる義務』を課せられているのだと思います。

次に、安楽死と尊厳死。
人間が耐えがたい苦しみの続く状況から救われることは、あっていいのではと思います。
自殺とどう違うのかという向きもありましょうが、私もうまく言葉にできません。
ただ、状況の変化によってはなんとかしようのある人生での自殺と、死が避けられないのに苦痛だけが続いている病状からの解放は、やはり違うと思うのです。

また私は『心臓さえ動いていれば生きている』という認識には反対です。
心臓が動いていることと、人として生きていることは別だと考えるからです。
これは『なにがその人の本質か』という部分にもかかわる話ですが……。
たとえば私が意識不明に陥って、回復する見通しがなく、なおかつ機械のサポートがなければ心臓も止まってしまうという状態になったとしましょう。
私自身としては、それはもう死んでいると考えて欲しい。

もちろん誰かがそうなったとき、近しい人がそれでも生きていて欲しいと考えるのは当然です。
ただそれも、万が一でも意識を取り戻してくれるかもという期待があってのことでしょう。
とすれば、その人の本質は、その人の精神活動にあるということになります。
だったら意識を取り戻すことはないと判断されたとき、本人が機械に繋がれて長らえるのはいやだという意思表明をあらかじめしていたなら、それは受け入れられなければなりません。

最後に、『介護されない権利』について。
『介護』とは自分ではできないことを他人に補ってもらうことと解釈しますが、それを拒否する状況というのは、私にはちょっと思い浮かびません。
介護は、年老いて弱った身体で生きていくために『受けなければならない(義務ではなく、必須)』ものだからです。

延命拒否と異なるのは、垢や糞尿にまみれても、とりあえず人は生きていられるという点です。
でもそんな状態でいることは、社会の福祉にも人間の尊厳にも反します。
人間は誰のために生きるのかを考えたとき、自分自身のためよりも、他人(家族等も含めて)のためが優先すると思われます。
だとすれば、他の人にとって納得のいかない死にざまは、避けなければいけません。
介護については、むしろ受けたいのに受けられない人がいることが問題ではないでしょうか。

矛盾してる部分もありますが、自分の意見はおおむねこんなところです。
感覚的な部分が多すぎますし、まだ固まっていない部分もあります。
内容も内容ですし、読まれるかたによっては不本意極まりない部分があるかもしれませんが、その節はなにとぞご容赦ください。
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by keibi-in | 2009-04-07 09:16 | 雑感  

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